Tuesday, July 26, 2011

日本に戻って来るのか、来ないのか

拙者がボーディングスクールで学んだこと、これは、新しく知ったというよりは、当たり前のことでもあるので以前から考えてきたことだったし、学ぶということ自体、未知を既知に変えるプロセスなどではなく、未知も既知も全部ヒックルメテ温めることだとは思うのであるが:

自分の与えられたものを精一杯、還元すること。

「与えられた」というのが最重要ポイント。そして、「還元」というのについて言えば、特に還元の対象は決められていない。自分の家族かもしれない。地球の裏側の微生物かもしれない。隣の隣の家のお父さん、あるいは赤ちゃん、あるいは仕事で出会った人、不特定多数の人々、あるいは自分をも含む何らかの組織かもしれないし、無機物質かもしれない。とにかく、自分よりは広範囲に属する何かに、「与えられたもの」を還すことを生の目的とすることである。特に、きれいごとにも思えない。至極、現実的であると思える。

与えられたものを自分の中だけに閉じ込めておこうとするのも、そもそも無理な話だと思うし(人間は穴だらけ、「目から口から鼻から」云云、とは孰が言か)、与えられたものを「与えられた」として認識できないのであれば、どこかできっと躓くだけだろう。躓いて、そして自分のあやまちに気付くだけであろう。

そこで、もう少し具体的な話をすれば、ボーディングスクールなどではなくても(だから、繰り返しにはなるが、ボーディングスクールなんぞに行く必要は、無い場合の方が多いであろう)、日本から日本国外に勉強しに行く場合、そして高校生の時分なぞ、特に低年齢(低も高も総じて相対的な尺度だが)で海外に長期間(つまり2年以上と定義づけよう)滞在する場合は、譬えばではあるが、与えられたものを「どこに」還元したいかは、さすがに出発前に考慮しておく必要があろう。

「どこ」というのは、分からないのが普通だが、どう考えても、口には出さなくても、どんなに潜在的あるいは無意識だったとしても、やはり最終的に「日本に戻って来るのか、来ないのか」が問題になろう。

そりャ、今のご時世、「日本か世界か」などと区分するのは時代遅れであろう。実際、「日本も世界も」という方向で日本も世界も動こうとはしているように見えることが多い。特に、アメリカなんぞに居りますと、そう見えることが多い。さすがは世界大国、そしてIT大国だけある。

しかし、今、拙者の拙い拙い考えでは、偉大な国アメリカが思わせてくれるほど、世界は一つではないし、世界はそれほど一致団結もしていなければ、地域を超えた流動性(特に人、思想、言語)がそれほど高いとも思えない。また、世界は一致団結しなければならない、あるいは、地域間の流動性は高まらなければならない、などという価値観は、特に高級な訳でもなければ、必ずしも正しい訳ではないだろう。これには色々な理由があり過ぎて、話は長くなる一方だが、暫定的に一つの大きな理由を挙げるとすれば、まあ大変に拙い言い方にはなりますが、世界各地の「人間文化の豊かさ」に尽きる。文化とは、簡単に言えば、しきたり・慣習。言い換えれば、記号の集まり。もう少しややこしい感じでいえば、慣習化された意味付けの継承。

世界には慣習の多様性が存在していて、、というのは聞き慣れたことだが、多様性=豊か、などという方程式は私は好きではない。(これは趣味の問題でしょうか。)多様性というものは、多様性と呼ばれているものが、実は多様性などでは全くないことが多いような気がするから、好きではないのだが、何が「豊かさ」なのかといえば、それは「細かさ」である。細密、詳細であること。

見かけはボッテリとしていても、マンボウの体にも細かい模様があり、「細かい部分を無視すれば」全部同じに見えてしまうようなタンポポ、梅、桜の花々にも、一輪、否、一片ずつの細かさ(これは、決して「個性」などではない。個性は、大量生産できる。細かさは、できない。機械は例外であろうが、自然の一部である人間は、機械とは少し性質が違うように思える)が現に存在しているのだ。

人間の体も然り。人間の慣習もしかり。よくよく観ると、考えると、細かくて細かくて、繊細で、1ミリ動かしただけでも大きな差異となる。何だか、アメリカ様(あるいは日本様でも、かもしれない)、あるいは現在のグローバル・スタンダードの家来になると、この細かさがまるで「悪いこと」、「劣っている」こととして目前に現前してくるときがないだろうか。少なくとも、拙者にはそのような経験がある。

でも、細かさはどうにもならない部分がある。もう既に、細かいのである。それを細かくないかのように扱っても、細かさはなくならないし、細かさに因って物事は進んでいくのだ。慣習の細かさを無視し続けると、大きな誤算が生じるであろう。その誤算をまた誤魔化すから、どうなることやら。

細かい慣習、細かい文化は、じっくり、ゆっくり、そして非常にデリケートな(つまり、時間もかかるし、強弱でいえば断然、弱な)対応を要する。人間の限られた一生の中で、このようなデリケートな対応をしようとすれば、自ずから行動範囲というのは、限定されてくる。これは、決して悪いことなどではない。行動範囲が限定されること自体は、悪いことではない。悪いのは、思考範囲が限定されたり、心の視野が限定されることなのだ。この区別は、非常に大事だ。少なくとも、拙者はこの区別に苦労した経験があるからこそ、この区別をいつも気にしている。また、行動範囲というのは、交友関係と同一ではない。世界各地に住む人、あるいは世界各地で育った人と交流することは大切だし、可能である。しかし、一人の人間が(会社ならまだしも)「世界を股にかける」というようなことがあれば、それは嘘であるし、思い上がりでもあるし、一種の性的ファンタジーの類に入るかもしれない。嘘にもいい嘘と悪い嘘があるが、これはどちらかといえば、悪い嘘であることが多いのではないだろうか。自分をも人をも翻弄させ、必要以上に煽るからだ。

話を戻すと、「日本も世界も」というのは、思考や心の持ちようでは、まさにそのようなものが理想か、とは思うのだが、実際的・現実的行動範囲は、インターネットも飛行機もある時代に・・と驚いてしまうほど、狭い!狭い!狭い!「日本」「世界」などという線の引き方にも問題はあるとしても、現実に、今の世界の税金の取り方というのは、一応、国別であって、それで色々なものが成り立っているのであるから、あながち恣意的な線引きでもなかろう。もちろん、「世界」というのは、実は、「日本以外のどこかの国」というような曖昧な意味で使われるのであろうが。昔風に、海内(「かいだい」と読む)・海外という区別の方がよいのだろうか。曖昧さは消えないが、「世界」という言葉にこれ以上失礼をすることはなくなりそうだ。

という訳で、あくまでも暫定的な方向性としてではあるが、若くして「海外」に勉強しに行く際には、どうしても、将来的に(どちらかといえば、10代後半からみて「遠い」将来・・・年齢でいえば、40、50歳ぐらいになろうかなあ)、海内・海外のどちらを主軸、あるいは拠点として「与えられたものを還元していく」意気込みがあるのかは、直感でもよいから、割合明確にイメージできていた方が、見失うものが少ないのではないかと思うし、夢もふくらみますヨ。

ちなみに、拙者の場合であれば、完全に、「海内」を活動の拠点としたいという願望が、一五歳の時点であったし、十年経た今も、全くそれは変わらないのである。その理由(なぜ変わらないか、そしてなぜこの願望を持つのか)については、また長い長いお話になろうから、今日はこの辺で。

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