Saturday, September 24, 2011

初日臥病

始めて寄宿塾に入るるは夏季、彼方にては珍しき蝉も亦た鳴啼すること盛んなり。余、感冒を得、咽頭を傷む。治らざること三月にして、身を窶す。況や心をや。異国の地にて罹病すれば則ち望郷の念に及ぶべし。

医院に入りて一晩臥して、橘汁を与えれり。穀の味の如く、宜しからず。苹果汁を飲まんと欲す。食堂に在りて水筒に蔵むると雖も、然れども腐敗す。酢の如し。呑むこと能はず。哀しきかな。

Wednesday, September 7, 2011

学校選び

学校選び、といえども、アメリカのボーディングスクール選びのことである。

嗚呼、ボーディングスクールはお金が掛けられているだけあってか、各校が尋常ではない個性を持っている。周辺環境(都市か田舎か)から教育方針、課外活動の種類から敷地の雰囲気まで、千差万別、それぞれがそれぞれの顔を持っている。

この個性を知って、自分に一番よくマッチしそうな学校をまずは10校ほど選び、それからウェブサイトや資料などを通した「書類」検討を重ねた上で、6校にまで絞り込む。そして、この6校を受験する。

合否結果が来たら、合格を頂いた学校から、世間がどう言おうが、六か月前の自分がどう感じていようが、一番自分が「大好き」だと心底から感じられる学校を選ぶ。この際、迷いがあってもなくても、できれば現地を訪問し、授業や寮を見てから決めた方がよい。実際に目と耳と体で確かめるのが一番である。

もし補欠(ウェイトリスト)になって、どうしてもその学校に行きたいと思うのであれば、すぐに受験担当職員に「どうしても行きたい」というメールをする。電話は邪魔になるので、控える。

あくまでも自分の嗜好本位で学校選びが進むべきだと考える。個人によって探しているもの、求めているものが異なるのは当然だからである。

しかし、敢えて一つだけ比較的に普遍性があると思われる判断項目を持ち出すならば、ボーディングスクールの教員の内、博士号(Ph.D.)保持者が何%であるか、また彼らがどの教科に集中しているかを調べる価値はあるかと考える。ボーディングスクールとはいえ、学士号や修士号が最終学歴の教員が多い。しかし、先取りが風潮の昨今、高校の間にする勉強は、大学・大学院の「学問」に近ければ近い方が、後々、役に立つと思われる。大学・大学院水準の「学問」を実践し、教授する訓練を受けているのは博士号取得者たちである。

ボーディングスクールでは、生徒の主体性を尊重する教育が行われることが当然であろうが、やはりその中でも、厳しさ(というのは対人的な厳しさではなくて、学問的な厳しさ、厳密さ)が必要となる。しかし、筆者の個人的な経験上、学士号や修士号の教師陣には、どちらかというとこの学問的厳密さが不足していた。例えば、国語であれば、「精読」の方法を教えない、読解論文の書き方を教えない。(教えない、というのは、「何でもよいよ」という指導に近かった。)化学であれば、最低限の教科書レベルの内容は教えるが、それが特により上級の内容に進んだとき、どのような意義を持つのか、説明がない。歴史であれば、史料の使い方、読み方に関する指導が少なく、結局ただ「調べろ」「見つけてこい」しか言わない。また、「歴史とは何か」という議論が欠如している。などであろうか。

一方、博士号保持者の教師陣は、本当に優しい、あるいはユーモラスな先生も多い中で、学問的厳密さと思考の深さでは、大抵は圧倒的であった。(但し、当然のことながら、例外は複数存在した。)そして、彼らの指導が、結局は大学やその先に進んだときに、役に立った。これは、筆者自身が大学や大学院の「学問」に特別な興味を持っていた、あるいは持つからでもあるが、そうではなくても、少なくとも大学進学を考えた上では、やはり少しでも先取りをしておいた方が、結局自分が楽だとは思う。

いつも通り、全く個人的な意見である。